はたして、どのような人物が忍者として活躍していたのだろうか?
まさに「影」となり、決して表舞台には出ることのなかった忍者たち。「黒装束を身にまとい、呪文を唱えながら九字を切り、煙と共に消えていく…」そんなイメージを思い浮かべる人も多いだろう。
しかし、実態はどうだったのか。長い歴史の中で「忍者だったのではないか」といわれてきた人物を探ることで、「真の忍者像」に迫る。
江戸時代の俳人で伊賀国上野の生まれ。忍者だったかもしれないという説が多い人物の一人である
その根拠となる話に「奥の細道」がある。弟子の記述と食い違う点が多いことは有名である。松島を目的としながら、
そこでの活動はほとんど無く、旅の目的は伊達藩の探索だったのではないかとされている。当時、幕府を脅かすほどに力を持っていた伊達藩に、幕府は日光東照宮の改修工事を命じたが、藩の経済状態を探索してから命ぜられたという。その探索役が芭蕉であったのではというのである。事実、伊達藩に入るまでは途中の宿場に長く滞在して句を詠んでいるが、伊達領内に入るとほとんどかけ足で通り過ぎている。そして伊達領内を過ぎると元のペースに戻っている。芭蕉が伊達領内を出て約一ヶ月後、工事の詳細が伊達藩に明らかにされた。
桃山時代の大盗賊で、釜ゆでにされたという話は大変有名だが、本当に忍者だったかは、残念ながら史料には残っていない。明治末期に編さんされた「大日本人名辞典」より~石川五右衛門は、三好氏の家臣石川明石の子、身体長大にして力は三十人力であったと伝えられ、
十六歳の時主人の宝蔵に盗みに入り、三人に斬り付け逃げた。その後も各地を転々としながら盗みを続けていたが、文禄の末に秀吉の命で捕らえられ、釜ゆでにされた。その際に詠んだのが、「石川や浜の真砂子はつくるとも世に盗人の種はつくまじ」~他の文献を見ても、実在した人物であり事実を元にしているようである。歌舞伎、浄瑠璃、読本などに取り上げられ、義賊として江戸時代の庶民の間で親しまれた。
甲賀忍者として、最も有名で最大の人気者は猿飛佐助である。明治末期に刊行された「大日本人名辞典」に紹介されている内容を一部紹介する。忍術家、名は幸吉。森備前守の浪士、鷲尾佐太夫の子とあり、真田幸村に従って功績をあげて行く。忍術は、戸沢白雲斎に教えられたとある。
また二世として、近江斉藤氏の家臣で元井辺武助が登場する。「万川集海」に出てくる下拓植(現伊賀町)の木猿、子猿という説や、真田家と同族といわれる信州諏訪出身の忍者が、真田幸村のもとで「猿飛」の異名で活躍したと書くものもある。これらは定かではないが、否定する根拠もない。明治四十四年頃から、大阪の講談創作グループが刊行した本が引き金となって、猿飛佐助は庶民の人気者となり、漫画にテレビに大活躍するようになった。