伊賀忍者の歴史
伊賀忍者の歴史
忍者の流派は全国に49流派あったと言われる中で、甲賀と並ぶ伊賀は国は違うが地理的にはお互いに隣接していた。
甲賀忍者集団53家と言われる親分がいて、その下にたくさんの配下を従える「郡中総」と呼ばれる団体行動をしていた甲賀流に対して、伊賀流は一口に伊賀流と言っても、服部、内川、滝、沢、その他主だった流派だけでも9流はあるということで、つまり一匹狼のような流派がひしめきあっていた。
そのなかで半蔵で知られる服部一族が又ひとつの流派を形成していた。
伊賀も甲賀も共に尾張、三河と都・京都との中間地点に位置し、戦略的に重要な拠点であった。映画や小説では伊賀、甲賀のどちらかが善玉で、どちらかが悪者として登場することが多いが、本当は大違いで両者の仲は良かった。現に、信長が本能寺の変であのような最期を遂げた時、家康がわずかな手勢とともに慌てて大阪・堺から三河まで、命からがら逃げ延びることができたのは、伊賀と甲賀の協力があってこそだった。勝手の分からない山道を夜通し歩くのだから。
伊賀と甲賀の忍者が協力して助けたあの時、どちらかがその気にならなければ家康を討つことは可能であっただろう。とすれば徳川の時代は無かったということになる。
歴史とはちょっとした行き違いで大きく変わってしまうものである。