甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣です。
幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦いです。
これを機に、望月氏をはじめとする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。
江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたものです。江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。
奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防衛建築としての観点からも、非常に見応えがあります。
中央の星を八星が囲む九曜紋が満月の意味を持つ望月氏によって用いられました。
平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改められた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として望月の姓が与えられました。そのあと、滋野氏が分家し、望月氏、海野氏、根津氏を起こし、滋野三家として継承されていきます。
この頃、家紋は望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、根津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を、海野氏は洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用いられました。
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